『神の使者』 ゲイリー・R・レナード 365の引用(5月分) |
*** ↓を書いたのがすでに2年前、という(^^; 昨年、この「マトリックス」=「シンボル」の世界で激務に追われ、バイオリズムの下辺をさまよってきたが、昨日の台風を経験し、報道や情報に不平不満ばかり言ったうえで、ようやくまたここに戻らないといけないことに気付いた・・・ 実に2年ぶりの追記(No.123~)。(←2019/10記)***
一昨年(=2015(^^;)読んでいた本だが、本文中「奇跡のコース」からの365の引用を1日1つずつ記していこうと思い(引用の引用・・・)、結果現在ざっと読み返しつつ印を付けている。(どこまでが引用なのかは推測になってしまうのだが、前後で重要と思われる文章も補足的にカッコ付きで記します、、、 ※はokyopの所見、メモ)
365文を並べると膨大な量なので、月単位に分けることにした。最終的に年内に終わるのか? → すでに「何月」というくくりが破綻してるし、年内どころか何年かかるか・・・(^^;
→ 365の引用(1月分)
→ 365の引用(2月分)
→ 365の引用(3月分)
→ 365の引用(4月分)
121> P.235
救済の秘訣は次のことしかない:あなたはそれを自分自身に対して行っているのだ。攻撃がどんなかたちであっても、これが真実である。敵と攻撃者の役割を誰が担っても、やはりこれが真実である。あなたが感じる痛みと苦しみの原因が何であるように見えても、やはりこれが真実である。夢を見ているとわかっていたら、あなたは夢のなかの人物に反応しないだろう。どれほど憎むべき悪人に見えても、あなたが夢を見ていることを忘れない限り、あなたには何の影響も及びはしない。
122> P.235
罪悪感を現実とし、それから償っても、罪悪感を消滅させることはできない。それは消滅させる代わりに罪悪感をもたせようとするエゴの計略だ。エゴは攻撃を通じた償いを信じ、攻撃が救済であるという狂気の考え方を全面的に採用している。
123> P.235
そしてエゴの教えのなかには、罪悪感からの逃げ道はない。攻撃は罪悪感を現実にするしそれが現実なら克服するすべはない。
124> P.236
神は赦さない。なぜなら一度も糾弾したことがないから。そして赦しが必要となるなら、その前に糾弾がなければならない。この世界では赦しの必要性は大きいが、それは幻想の世界だからだ。したがって赦す人々は自分自身を幻想から解放するし、赦そうとしない人は自分自身を幻想に縛りつける。あなたがたは自分自身を糾弾しているだけだから、自分自身を赦すだけである。神は赦さないが、しかし「彼の愛」が赦しの基盤であることに変わりはない。
125> P.236
聖霊は単に、それが決して存在しないという静かな認識を通じてそれを消滅させる。
(※それ=罪悪感)
おまけ> P.237
--(中略)-- シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』(邦訳:角川文庫)というすばらしい本を読んだことがあって、そのなかで最も印象的だったのはレフ・トルストイの書簡の一節だった。--(中略)--
「・・・・・・生まれてから死ぬまでさまざまな夢を見るわれわれの全人生は、それ自体がまた夢であり、わたしたちがそれを実人生と考えてその現実性を疑わないのは、ほかのもっと真実の人生を知らないからではないのか?」
おまけ> P.239
ゲイリー:それは詩人論の「われわれはシンボルであり、シンボルに棲んでいる」ってことだね。
(※松ちゃんの『しんぼる』はここから??)
おまけ> P.241
パーサ:病気になると心のなかの攻撃的な考えが--たいていは無意識なんだけど--身体の細胞に象徴化されてガンとして互いを攻撃したり、ほかのさまざまな病として現れるでしょう。
126> P.241
身体とは罪の考えが肉体化し外に投影されたもので、心のまわりに肉の壁をつくって閉じ込めているのだ
・・・(聖霊の愛は、身体はあなたがたを隔てておけない、と言います。赦しを通じて自分自身と再び一つになりなさい。)
おまけ> P.242
エネルギーでさえ(わたしは「気」と呼ぶことにするけれど)幻想です。心のなかにある見えない考えを見えないけれど測定できるかたちに変形させ、次にあなたがたが見て経験できるかたちで現すというエゴの台本の一部そのものなのよ。これはいっぺんに起こるんだけど、あなたがたに理解させるためには線形でなければならないのね。
--中略-- あなたがたの目ではこの気の場は見えないけれど、どこにでもあるし、あなたがたは毎日そのなかを歩いているのよ。
おまけ> P.244
わたしたちが言っているのは、心のまったく違ったレベルからやってくる決断のことで、そのレベルの心には空間というものはないの。
127> P.244
(あなたがたの経験とは、神から離れ、兄弟姉妹から離れて、コンピュータ・ディスプレイのなかにいて、分裂した心の二元性とともに分離という考えと紛争を行動化しているってこと。あなたがたの兄弟姉妹は、あなたがさせたいと思うとおりのことをする。前に、)
あなたがたは自分で彼らを生み出していることに気づいていない
(、という「コース」の教えを指摘したわね。
電磁場の変化はあなたが見ているものまで律しているのよ。何かが見えるってことは、電磁気スペクトラムのなかの人間の視覚で認知できる領域にあるってことでしょう。
大事なことは、あなたの決断はほんとうはここであなたがしているのではない、ということ。まったく違ったレベルで、あなたがエゴの計画に同意したときに決断は行われたの。その厄介な状況から脱出する唯一の方法は、正しい心に立ち戻り、見るものについて、あなたを台本の罠に閉じ込めているエゴの解釈ではなく聖霊の解釈を選ぶこと。)
おまけ> P.247
そう。その車に乗っていたきみの兄弟は、生活のほかの部分できみが発揮する苛立ちを含め、きみの心のなかにあるものの象徴で、それが彼の苛立ちに象徴されていたことを忘れないように。
128> P.247
きみが彼を見るように、彼はきみを見るだろう
おまけ> P.248
研究や分析をするなというんじゃないのよ。そうしたいなら、そうしなさい。でも、それは事前にプログラムされた夢の台本のなかの出来事だってことを忘れないようにね。
129> P.250
身体はほぼ自発的で独立しているように見えるが、実際には心の意図にのみ反応している。
おまけ> P.252
どっちもたいていは本気で自分たちが正しいと信じているが、じつはどっちも正しくはない。だって彼らが見ているのは真実じゃないんだから--そういう主張に反応してどっちかの味方になったとたん、ぼくたちは解決策ではなく問題の一部になってしまう。
130> P.254
あなたが奇跡を実現したとき、わたしはそれにあわせて時間と空間を調節するだろう。
131> P.254
奇跡は時間を崩壊させることで時間を短縮させ、それによってある種の間隔を除去する。だが、それはもっと大きな時間的連鎖のなかのことである。
おまけ> P.256
ゲイリー:そうなのか。もう一つ質問があるんだけど、ケネディ大統領を殺したのは誰?
アーテン:それを知ったら、犯人たちを赦せるかい? 本当の問題はそれだよ。われわれはきみにこの世界で影を追っかけさせるために来たわけじゃないんだ、兄弟。
132> P.259
(赦しを実践すると、きみは自分が以前に比べて言葉を失ったと感じるかもしれない。だが心配はいらない。賢そうに見えるかどうかなんてどうでもいい。大事なのは聖霊による癒しだ。このプロセスはきみのなかですでに加速している。「コース」にあるように、)
きみはもう完全な狂気ではなくなっているんだ。
133> P.262
(ここが重要なんだが、きみはまだたくさんの違った問題を抱えていると思っているけれど、「コース」は問題が一つしかないことを知っている。)
神から分離したように見える、ということだ。
おまけ> P.263
エゴは紛争を望むし、あなたが否定的な感情で反応したら、それは紛争なの。エゴのシステムを生かしているのはあなたの判断だけど、赦すことでそこから解放される。だから気をゆるめちゃだめよ。
--(中略)--その日は、あなたがわたしたちのようになって台本を離れ、ほかの人の先頭に立って夢を後にする準備ができたときに訪れるでしょう。
おまけ> P.264
霊的(スピリチュアル)な考えは一度聞いたり読んだりするだけでは足りないよ。最初に言ったように、きみが学ぶまで何度でも繰り返すつもりだ。
おまけ> P.265
「コース」はどこか山の中で孤独に住まう人によって与えられたんじゃないことを思い出してね。
おまけ> P.265
この次に来たら、きみの「ヘルパー」について話してあげよう。永遠にきみとともにいるのだが、いまようやくきみがその声を聞き始めた相手だ。聖霊の声はきみをわが家に導いてくれるだろう。最初は夢のなかの囁きのようなものだ。だが赦しを実践していくと、彼の声はだんだん大きくはっきりしてくる。彼はさまざまな方法で現れてくるよ。一つは本だ。
134> P.265
エゴもまた赦しの計画をもっている。あなたがたがそれを求めるからなのだが、求める教師が正しくない。エゴの計画はもちろん意味がないし機能しない。エゴの計画に従えば、エゴがつねにあなたがたを導く不可能な場所に自分を置くことになる。エゴの計画は、まずあなたがたに過ちをはっきりと見させ、次にそれを見過ごさせることだ。だが現実化してしまったものをどうして見過ごせようか? はっきり見ることによって、あなたがたはそれを現実とし、見過ごすことができなくなる。
(あなたがたの兄弟姉妹は--これには父母も含まれるんだよ--ほんとうは、その人たちがしたとあなたが思うことをしたのではない。このことを忘れないことがとても大切だ。)
135> P.266
(--(中略)--批判癖が出たなと思ったら、「テキスト」の「自責」という部分のJの言葉を思い出しなさい。)
このことを学び、よくよく学びなさい。これによって、幸福の遅延があなたがたにはわからないほどの時の幅で短縮されるのだから。あなたがたは決して兄弟の罪によって兄弟を憎むのではなく、あなた自身の罪によって憎むのである。兄弟の罪がどのように見えようとも、それはあなたがそれを自分のものと信じているという事実を押し隠し、「正義」の攻撃と思わせるように仕向ける。
136> P.268
エゴは認識される世界をつくったが、エゴの行いを再解釈する聖霊は、あなたがたをわが家に導くための教育手段として世界を見る。
137> P.271
「コース」では、いみじくも聖霊を「神の声」ではなく「神のための声」と呼んでいる
おまけ> P.271
もちろん聖霊の「手」をとっても同じだっただろう。実際、神のシンボルなら何でもいい。何を選ぶかは一人一人が決める。大事なのは人がそういうシンボルをもっていること、そしてそのシンボルを通じて神との距離や分離がなくなり、一つになれることだ。
138> P.271
わたしは完璧な聖性のなかで神とともに歩む。
今日の考え方は、罪という考え方を不可能にする単純な真実を表している。罪悪感にはまったく原因がなく、原因がないゆえに罪悪感は存在しないと約束しているのだ。これは「テキスト」のなかでたびたび触れられた基本的な考え方から確実に生まれる、源(ソース)から離れてはいない、という考え方である。これが真実なら、どうしてあなたがたが神から離れているはずがあるだろう? どうしてあなたの源(ソース)から別れて、一人ぼっちで世界を歩むはずがあるだろうか?
139> P.274
自分はその場にいないのだと気づかない限り、喜びのない場所で喜びを見つけられるだろうか?
140> P.274
エゴの投影と聖霊の拡大は非常にシンプルだ。エゴは除外するために投影し、したがってあざむく。聖霊はあらゆる心に「彼自身」を認めるために拡大し、したがってそれらが一つだと受けとめる。この概念のなかでは何もぶつからない。なぜなら聖霊が受けとめるものはすべて同じだから。「彼」はまなざしの赴くところに「彼自身」を見るし、彼は統一されているから、つねに「王国」全体を差し出す。これは神が「彼」に与えたメッセージであり、そのために「彼」は語らなければならない。なぜなら、それが「彼」の存在だから。神の平和はこのメッセージのなかにあり、したがって神の平和はあなたがたのなかにある。王国の偉大な平和は永遠にあなたがたの心のなかで輝いているが、あなたがたがそれに気づくには外に向かって輝き出さなければならない。
おまけ> P.274
もちろん、神は天国できみにそのメッセージを与えた。聖霊はそのメッセージについてのきみの記憶なんだよ。さて、きみがほんとうの自分を思い出すためには、きみの心に見える人々と聖霊のメッセージを分かち合わなければならない。
141> P.274
あなたの完成、統一、平和という真実に対立するすべての考えを赦しなさい。あなたがたが「父」から与えられた贈り物を失うことはあり得ない。
142> P.275
あなたがたは神の計画にしたがって受け取る。決して失い、犠牲になり、死ぬことはない。
143> P.275
自責の念をもつ者だけが、糾弾する。
144> P.275
あなたがたは上級審に糾弾されると恐れる必要はない。上級審はただ、あなたにタイする起訴を却下するだろう。神の子が起訴されることはあり得ず、神の創造において有罪の証言をする者はすべて神自身に偽証を行う。あなたがたの信じるすべてを喜んで神自身の上級審で訴えなさい。その訴えは「彼」のためであり、したがって真実を語っているから。訴えがどれほど慎重に積み上げられても上級審はあなたに対する訴えを却下するだろう。起訴事案は愚か者でも失敗し得ないほど絶対確実(fool-proof)かもしれないが、神を騙す(god-proof)ことはできない。聖霊は耳を傾けないだろう。なぜなら「彼」は真実だけを見届けるから。「彼」の判決はつねに「神の王国はあなたのもの」である。なぜなら「彼」は、ほんとうのあなたがたを思い出させるために、あなたがたに与えられたから。
145> P.276
世界はない! これが「コース」が教えようとする中心的な考えだ。誰もがこの教えを受け入れられるとは限らないし、一人一人が真実の道をできるだけ遠くまで導かれる必要がある。彼は引き返し、さらに遠くまで行くだろう。あるいはしばらく後退し、また戻るかもしれない。
だが、世界はないことを学ぶ用意があり、いまこのレッスンを受け入れられる者には癒しが贈り物として与えられる。その用意があればレッスンは理解でき、認識できるかたちで与えられるだろう。
おまけ> P.276
だからぼくが世界に見ているのは、ニュースでさえ、ほんとうはぼく自身の憎悪であり狂気だ、って。
146> P.277
きみには愛と恐怖の二つの感情しかない。聖霊は世界のすべてに愛の表現か愛への呼びかけを見る。
おまけ> P.277
「コース」が世界はないと言うのなら、あなたより賢そうな人も恵まれた人もほんとうはいないってことよね。あなたより豊かな人も、もっと有名な人も、セックスに恵まれている人も、いないわ。とにかくあなたに怒りや劣等感や罪悪感を抱かせる人たちはいないってこと。お山の大将ごっこのように相手を突き落として頂上に到達しようといなくてもいい。
147> P.278
あなたがこの世界は幻想だと認識したら、どうなるか? それは自分ででっちあげたのだとほんとうにあなたが理解したらどうなるか? その世界で歩き、罪を犯し、死に、攻撃し、殺し、自分を破壊する人たちはまったく現実でないと気づいたらどうなるか?
おまけ> P.279
エゴは「神は与え神は奪いたもう」と言う。聖霊は神は与えるだけで決して奪わないと知っている。
エゴは死は現実であると述べる。聖霊は誰も死なない、誰もほんとうに死ぬことはないと言う。
エゴは何かを善か悪か判断する。聖霊は、どちらでもない、なぜなら真実ではないから、と言う。
148> P.279
救済とは「正しい心」ということに過ぎず、聖霊と「一体の心」になることではないが、「一体の心」が回復される以前に到達しなければならない段階だ。「正しい心」は自動的に次の段階につながる。なぜなら正しい知覚にはまったく攻撃はなく、したがって間違った心は消えるからである。エゴは批判なしには生き延びられず、それゆえに脇に押しやられる。そうなれば心が動き得る方向は一つしかない。その方向はつねに自動的である。それが従う思考システムによる指示以外はないから。
おまけ> P.280
エゴはきみがすることを重要に見せたがる。きみの霊性(スピリチュアリティ)を邪魔し、真実を遅らせようとして、そういう領域でのきみの行動を重要な特別なものに思わせたがる。
149> P.280
あなたがたはここではなく、永遠に住まっている。
150> P.280
あなたがたが光から遠ざかる無用の旅をしたい誘惑にかられたときは、自分のほんとうの望みを思い出して、こう言いなさい。聖霊はわたしをキリストに導く。ほかのどこに行きたいというのか? 「彼」のなかで目覚める以外に、どんな必要があるのか?
151> P.281
あなたがたは傷つくことはないし、全体としての自分以外の何も兄弟たちに見せたいとは思わない。兄弟があなたを傷つけることはあり得ず、あなたも兄弟に何の敵意ももっていないこと、自分自身にも敵意をもっていないことを示しなさい。それが「もう一方の頬を向けなさい」の意味である。