『神の使者』 ゲイリー・R・レナード 365の引用(2月分) |
365文を並べると膨大な量なので、月単位に分けることにした。最終的に年内に終わるのか?(^^; → 365の引用(1月分)
032> P.150
このコースを学ぶには、あなたのすべての価値観を疑う意志が求められる。
033> P.150
--導入部
これは奇跡のコースである。これは必要なコースである。あなたがいつこのコースを学ぶか、それだけがあなたの意志に任される。自由意志とは、カリキュラムを自分でつくれるという意味ではない。ただ、ある与えられた時間に何を取り上げるかを自分で選べる、という意味である。このコースは愛の意味を教えることを目的としてはいない。それは教えられるものではないからだ。そうではなく、愛の存在に目覚めるうえでの障害を取り除くことを目的としている。愛はあなたが自然に受け継いでいるものなのだ。愛の対極は恐怖だが、すべてを包み込むものには対極はない。
したがってこのコースは、ごく簡単に言えば次のように要約できる。
現実(リアル)であるものは、いっさい脅かされることがない。
非現実(アンリアル)であるものは、いっさい存在しない。
ここに神の平和がある。
おまけ> P.151
真実とは気づきであって、書物ではない。だが、自分一人では、気づくことができない。
034> P.151
コースの教えをいつ学びいつ運用するか、タイミングは自分で決めればいい。そうしたければ、いつまで延ばしてもいい。カリキュラムはすでに確立されている。それぞれの時期に何を学ぶかは自分で選べばいいが、無数の選択肢があるわけではなく、ほんとうの選択肢はたった二つしかないことにいずれ気づくだろう。
035> P.151
この世界と人々の愛は、「コース」が特別の愛と呼ぶ聖霊の愛とはまったく別だ。
(「コース」の中の「愛」と「恐怖」という言葉は二つの完成された両立し得ない思考システムのことで、ほんとうにわかったうえで選ぼうと思うなら、この両方を理解する必要がある。)
036> P.152
事実、きみたちの無意識の信念システムは、直視しないから安泰でいられる。
037> P.152
だが、自分たちが否定して外に投影している恐怖の思考システムから自由になりたいなら、生きるなかでこの思考システムをしっかりと検討しなければならない。
(その事実に向けて人々の目を開いてやらなければ、何を言っても役に立たないのではないか?)
038> P.152
現実(リアル)であるもの--「コース」の愛の思考システムが導いてくれるきみたちの永遠にして変わらぬ霊(スピリット)--は、ほんの少しも脅かされることがない。非現実(アンリアル)であるもの--これはそれ以外のすべてで、恐怖の思考システムが生み出している--は、真の現実のなかではいっさい存在しない。神の平和が「コース」の目標だというのは、王国におけるきみたちの現実への気づきを再び獲得するには、神の平和が達成されなければならないからだ。
039> P.153
完全な抽象は、心の自然な状態である。
040> P.154
同じように聖霊も穏やかにきみを起こすだろう。彼はきみの夢になど反応しないし、きみと離れ離れの神ではない。彼は、こんな遠くの国にまで幻想の旅をしてきたきみが依然としてもつ「神のための声」なんだ。
(聖霊がきみを起こす方法の一つは、きみが起こっていると思っていることは起こっていない、と教えることだ。真の現実は目に見えない。何らかの方法で知覚できて観察できるものは、科学的に測定できても幻想だ--これはこの世界が考えていることと正反対だね。しかし「コース」は現実的なんだ。真の赦しという「コース」の思考システムは身体的な目に見えるものへの対処にも仕えるし、社会できちんと機能する。幻想のなかでは、ほかの仕事に比べてとくに聖らかな仕事はない。)
041> P.154
罪なき心には、苦しみはあり得ない。
※P.155に「コース」の引用でありつつ、「*」のない文章あり。
(無辜(むこ)とは部分的な属性ではない。それがすべて(トータル)になるまでは、本物ではない。--以下略--)
042> P.156
彼らが無辜だという理由は、かたちのレベルとは関係ないの。ヒトラーもあなたを含めた世界じゅうの人も等しく無辜なのは、あなたが見ているものが真実ではないから。
043> P.156
これはあなたがたの夢。「コース」が教えるとおり、べつの誰かの夢ではない。
044> P.157
誰もが完全に無辜であるという考え方も、「コース」が教えているほかの考え方も、いますぐに受け入れなくていい。
045> P.157
「コース」では恐怖の思考システムと神からの分離に「エゴ」という名を与えている(けれど、この言葉をふつうに心理学で使われる「エゴ」と混同しないように。)
046> P.158
(「コース」は聖霊の教えの結果としての平和について、こんなふうに書いているわね。)
それは神以外のあらゆるもののあなたへの影響力を否定する。これが否定の適切な使い方である。
047> P.158
(平和につながる赦しについて、「コース」にはこう書かれています。)
赦しも一つの幻想だが、その目的のゆえに聖霊の幻想であって、他の幻想との違いが一つある。ほかのすべての幻想と異なり、それは過ちから遠ざけてくれるし、過ちのほうへは向かわせない。
048> P.158
(決して物理的に傷つけられるのを放置したり、教えを証明しようと危険や苦しみを求めたりしてはいけません。)
磔刑は極端なレッスンで、学ぶために体験する必要などない。
049> P.158
(ほとんどの場合、あなたはふつうにしていることをするでしょうが、でも一人ではしないこと。)
できるときには指導を求めなさい。あなたには聖霊の思考システムの総体があるし、Jがそれを説明してくれます。
050> P.159
これは結果ではなく、原因のコースである。
051> P.159
したがって、世界を変えようとせず、世界に関するあなたの心を変化させることことを選びなさい。
052> P.159
あなたは正しさと幸福と、どちらが好ましいと思うか?
・・・(エゴの欺瞞の一部は、人々が他人を批判して自分のほうが正しいと信じたとき、しばらくはいい気分になっていられること。そうすると無意識の罪悪感を誰かに投影できるからね。)
053> P.161
「コース」が兄弟について判断をするなと言っているのは、非難するなという意味だ。
054> P.161
神の教師にとって課題(チャレンジ)はない。課題(チャレンジ)とは疑いを意味するし、神の教師が確立した信頼には疑いの入る余地はないからである。
055> P.161
奇跡はあなたがつくったものを創造と比較し、これに合致したものを真実として受け入れ、合致しないものを偽りとして拒絶する。
056> P.162
すべての用語には議論の可能性があるし、議論を求める者は議論にぶつかるだろう。だが明晰さを求める者は明晰さを見出すだろう。しかし議論は努力の先延ばしというかたちによって真実に抵抗しようとすることだと認識し、これを大目に見る意志をもつ必要がある。
057> P.162
(われわれが戻ってくるまでに、霊的な道は同じではないし、統一が欲しいなら「目的地」で見つかるだろう、ということを考えておきなさい。)
すべての霊的な道は結局は神につながっている。
(だが道は同じではない。)
058> P.163
まことにエゴは罪のうえにその世界をつくったと言うことができる。そのような世界においてのみ、すべてがひっくりかえり得る。この奇妙な幻想が罪悪感の雲を貫き通せない重いものに見せている。この世界の基盤が堅固であるように見える理由はここにある。罪は創造を神の考えからエゴが望む理由に変えたからだ。エゴが支配する世界は身体からできていて心がなく、完全に堕落し崩壊し得る。これが誤りなら真実によって簡単に正すことができる。真実の判断に委ねるなら、すべての間違いは正すことができる。だが、誤りに真実の地位が与えられたとしたら、どんなことになるだろうか?
059> P.164
天国の外には生命はない。
神が生命を創造したところにこそ、
生命があるはずなのだから。
さて、今年の2月は29日あるけど、28コで止めておきます・・・ もう3/6ですが(^^;
そもそも、西暦に倣うことに抵抗があるが、、、 ってこの発想が分裂そのものぢゃん(^^; 反省、、、 しかも当の「J」のコースなんだから(^^;
自分自身の状態によって、本を開いてもまったくといっていいほど内容が入ってこないときがあるので、この作業、意外に困難、、、 浮き沈みするそんなバイオリズムまで赦して受け入れなければ・・・
→ 365の引用(3月分)