高野山開創1200年記念 高野山の名宝 (11/24) |
今はまだ東京の高野山のみで、本当の高野山は訪れたことはないが、いずれは訪れるのだろうと思っている。(「来る平成27年、弘法大師空海が高野山を開創して、1200年の節目を迎えます。高野山では平成27年4月2日から5月21日までの50日間「生かせ いのち 大師のみおしえ いまここに」のテーマのもと、高野山開創1200年記念大法会が執り行われます。」とのこと・・・ 訪れるならこのタイミング?)
3年前の『空海と密教美術展』は3時間半以上かけて回ったが、今回は金剛峯寺メイン、展示の規模も控えめで2時間かけずに見終えてしまった。
今回、「高野山の名宝」ということで「空海」の名はなく、自分としては最も見るべきだった空海直筆の国宝、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」も期間限定ということで、見ること叶わず、、、
何かを感じたいという願望を携えていては感じる機会も薄れてしまうのだろうが、「何か」を感じたといえるのは唯一、「弘法大師入定図」だ。もっとも、これが描かれたのは16~17世紀なのだが、、、
また、仏像に「何か」を求めることは、自分の中ではもはや手放してしまった。(と書いてまた、ふと想った・・・ 「自分の映し」として見れば良いのだろうか、、、)
最近は、「崇高な芸術作品」でありまた、「大好きなフィギュア」といった体で眺めている。
今回、一番気になったのは、国宝「諸尊仏龕」(しょそんぶつがん)だった。
師・恵果から受け継いだというそれは、高さ23cmという小さなものだが、その緻密な作りは目の前に置いていつまでも眺めていられるものだ、、、 心から「欲しい・・・」と思った(^^;
運慶の八大童子像、快慶の四天王立像、執金剛神立像などは、皆さまの期待を裏切らないものであり、それぞれ3ターンくらい観ても飽きないだろう・・・
八大童子像は、うち2体は運慶作とされていないのだが、それが素人目にも判るクオリティの差があるのもまた、面白いといえるかも・・・(そう断定して良いのか分からないが(^^;)
八大童子像の運慶作6体と、四天王立像は、作り手が「キャラ設定」を楽しんで作っているとしか思えない、とんでもない「キャラの立ち方」なのだ(^^;
失礼ながら、それらは単なる「おっさん」だったり、「ホンコン」だったり、「スカシ」だったり「不安」だったり、はたまた自分の友人の「カネ」だったりする・・・ (いや、そこが「スゴイ」という意味なのだが・・・)
そして、最近の自分の新たな仏像の見方が、「動いているか?」だ。東寺の帝釈天に始まったこの感覚。要するに一分の隙もなく完成されたプロポーション(含デフォルメ)においては、像は静止しては見えないのだ・・・ ここにある仏像たちのいくつかは、「生きた人」そのものであり、期待どおり「動いて」いる。
また、「生きている」以上、彼らの視線の先にあえて立ち、「見てもらう」のがオススメだ(^^; とりわけ矜羯羅(こんがら)童子の視線にカットインするのが、自分の一番のお気に入り。
四天王立像に関しては、今はない大仏殿の巨大な四天王立像(13m?)の元だったのでは、というのがうなづけるプロポーション。それぞれものすごくカッチョイイのだが、正面からの目線では腰のひねりなどが不自然。そこでしゃがんで足下から13mある体で見上げてみると、、、 カッチョ良さMAXだ!
増長天のひねり具合など、正面からでは「変な踊り」に見えてしまうが、見上げれば「ナットク」なのだ。
ここでの一番は「広目天」。もちろん見上げての絵面でそれはさらに引き立つのだが、いかんせんこの展示方法では、自らしゃがむしかないのだが、しゃがんでいる人など見当たらなかった・・・
曼荼羅に関しては、金剛界が展示してあったが、期間前半は胎蔵だったらしい。やはりこういったイベントは早めに来た方が良いらしい、、、
もっとも、いつ見ても「胎蔵界」と、区別、区切りを表す「界」を胎蔵に付けるのがなじめない、、、
面白い木彫りのはんこのような「板彫胎蔵曼荼羅」に「界」は付いていない・・・
ちなみに巨大な金剛界曼荼羅の前で心で真言を唱えてみたが(ここで??(^^;)、何も感じなかった、、、
このような作品の前に立つと、ともすると誤った方向に行ったり来たりになってしまうが、空海さんから連綿と続く人々の貴重な「意思の結晶」を活かして、あくまで自分の中にある大日如来に到達することを目標にしなければならないと再確認した。