『生命体験と美的体験 -神秘額から見た美意識-』 (朝日カルチャーセンター:10/18) |
髙橋巖先生は、日本におけるルドルフ・シュタイナー研究の第一人者である美学者で、シュタイナーの著作を多数著作・翻訳されている。
シュタイナーの本は、単に難解ということもあるが、その理詰めな感じが今の自分に必要な「感覚」、「実践」を遠ざけるような気がしてあまり読んでこなかった。ただし自分の中のシュタイナーは、空海や五井昌久先生と同様に大きな、尊敬する存在だし、著している内容はまったく共通するものだと思う。
今回の講座を受講して、その共通する事項を再確認もしたが、「バランスが大切」という至極もっともなことを再確認し、目を逸らそうとしていたところにも立ち帰らせてもらえた。
以下、シュタイナーについても芸術の知識も足りなさすぎて、単なる自分のためのメモでしかないが、自分の解した講座の内容をかいつまんで・・・
また、先生自身が「まとめきれない問題」であるとおっしゃっているくらいなので、自分がまとめきれるわけはないが、「今の自分」と照らし合わせて、、、
生きづらい世の中で差し込む光の大元としては次の2つがある。
・自分ではない何かに熱烈な想いを寄せること(=自分の外に光を求める)
・自分の中の神に出逢うこと(=自分の内に光を求める)
この2つともが、生きづらい世の中を生きて行くには必要で、内だけでなく外が大事であるとのことだ。
今回の内容は、「内だけでなく外が大事」ということに主眼を置いた内容であったようだ・・・
神秘学、スピリチュアルに傾倒すると、出逢う内容からして「内へ、内へ」と導かれてしまいがちなのだが、その先にある「仙人のごとき生活」は今の人類の共益にならない、社会に身を置きつつ、人類の共益を考えるにはどうしたら良いか、ということを皆で考えましょう、という感じで自分の解釈は合っているのだろうか(^^;
(これはもちろんシュタイナーの立ち位置である(のだと思う)し、『アミ 小さな宇宙人』のシリーズを通して描かれていること、五井昌久先生のスピリット、さらには最近ハマり始めた「レイキ」などにも共通する。)
ちなみに、この外と内の間をさまよいながらトライ&エラーを繰り返す様を先生は、臆病さをカラスになぞらえて「心の旅がらす」と名付けているそうだ。
次に、客観的に見ると顕れる2人の「自分」について考える。
・かしこい自分:めったに顕れない。(=内へ向かう自分、か?)
・かしこくない自分:いつでもいる意識できる自分。(=外へ向かう自分=思考と感情)
かしこくない自分は「私が×××」と限定し、フィルターをかけ、区別したがる自分だ。すぐ有頂天になり不満を言い失敗する。しかし、そんなかしこくない自分でも、光を求めることができるというのだ。
そしてその光の元となるのが「熱烈な想い」。上記の「内/外」と同じことだが、ここで大切なのは、「かしこくない→失敗する」状況においてこそ、その中での光は「光り輝く」ということではないか、、、
そして今、自分は心の師(というか魂友?)のススメで『ユーフィーリング』を読んでいるのだが、この光って「ユーフィーリング」では? と、ふと想うのだった・・・
さて次は、「自我」という視点で(おそらく同じことを)考えると、、、
自我はいつも他者と結び付きたがっている。融合したがっている。縁のないところに縁を作り、結び付くと高次の自我が喜ぶ。自分ではない何か(たとえば本の内容などでも)を、「自分の×××」として取り込み、「自分の×××」が増えれば増えるほど高次の自我が育つという。なるほど、本の場合であれば、その内容が「気付き」を生む。気付きは光となって自我に差し込む。(このとき、自分は湧き上がるエネルギーを感じる・・・)
ここでいう「自分の×××」→「自分は×××」というものをすべて取り払えば「真我」なのだろうが、今ここではあえて「自我」に脚光を当てているようだ。高次の自我こそが、社会により大きな貢献をするのだろう、、、
さらに続いて、自我を「かしこい自我」と「かしこくない自我」に分けてみる。
・かしこくない自我:短絡的にしあわせ指向。
・かしこい自我:きらいな人、いやなことをあえて指向する。
この、きらいな人、いやなことに面しているときこそが実は重要で、そこにこそ光が差すということを、かしこい自我は知っている。だから、かしこい自我の欲求にしたがい、自ら進んで「生きづらい世の中で光の差す瞬間をよりたくさん体験すべき」、ということだろうか、、、
たしかに、闇があってこその光であり、光の中(=真我)に光は差し込まない。闇のあるのが「この世」とすれば、その中での光の実感(=この世での経験)を高次の自我は、より多く、より多彩に求めているのだろう。
そしてまた想う・・・ この光って、ユーフィーリング?
ちょっと曲解が甚だしくなってきている気もするが(^^;、真我だけでは世の中の、人類の役に立てないということか・・・ 日常中でユーフィーリング、ワクワク(熱愛)を連続させ、愛(結果は奉仕)へと昇華、結晶化させていかなければならないのか、、、
最後に、日常と非日常で考えてみる。人生には、日常、非日常のどちらからのアプローチも必要だ。
・日常:意識世界
・非日常:無意識世界
日常の中の非日常に、神の創出(自分の中で無から有を生み出す)はある。つまり、日常に身を置きつつ、非日常にシフトできたとき、創出はなされる。
要するに日常、非日常、どちらも必要で、どちらにも偏らない「中庸」こそが大事であるという。
芸術の世界では・・・
非日常に重きを置くノヴァーリスは、恋人の死を機に理想を非現実に求めた。その作品は時間と空間を超越した「流動的」なもので、それはまさしく、時間・空間がたたみ込まれている(区別がない)あの世への憧れ、だろうか・・・ (多分に自分の妄想プラスしてます。念のため(^^;)
対極の、日常に重きを置くゲーテは、神々の天地創造のはたらきをこの世で見つけようとし、時間と空間が結び付いているこの世を賛美、形態、そして瞬間にこだわる。しかし、一瞬は永遠である、とも?
ここで対比として出てくるのは「流動」と「瞬間」だが、超かいつまんでいえば、そのどちらにも偏らないアプローチが人生には必要ということだろうか、、、
生命というのは「常に動いている、流れている、変化しているエネルギー」だが、同時に、「流れの中の一瞬の連続」でもある。この、マクロ(流動)とミクロ(一瞬)のどちらも受け入れるべき、ということか・・・
そして、その「瞬間の凝縮」の例として持ち出された、コリン・ウィルソンの話が意表を突かれた。
肉体的でも霊的でも「絶頂体験」というものが瞬間の凝縮であり、これを識っているものがアウトサイダーだというのだが、ちょっと「絶頂体験」のインパクトが大きくて、つかの間、道に迷ったような状況になりもはや理解が正しいかかなり怪しいが(ここまでも理解のほど、十二分に怪しいですが(^^;)、一部宗教の秘儀、密教の歓喜天などが頭に浮かび、そのアプローチもありってこと? これ(目を逸らすこと)が自分の「偏り」ってやつか? てなところに着地する、、、
この辺り、まったく消化し切れてないのだが、もうひとつ引き合いに出されたのが「X機能」だ。
「X機能」とは時空を超えて人々の体験を認識する、現代の人間が失った潜在能力のことらしい。
そして、自己実現の最終段階が絶頂体験??
要するに併せると、究極的には他者の体験も自分の体験もない、絶頂すれば皆で共有でき、苦しめば皆で苦しむ、ということ? たしかに皆で体験を共有する世の中になれば、苦しみは撲滅するでしょうね、、、 ただ、歓喜ばかりだとつまらないので、皆合意の下、たまに苦しみも味わうのかな(^^;
ちなみにコリン・ウィルソンは至福のビジョンを意のままに呼び起こすことが必要としているようだ、、、 これもユーフィーリング、だよね?(^^;
繰り返しになるが、先生がまとめきれないものをまとめられるわけもないのだが、自分なりにまとめさせていただけば、、、
日常のつらい生活の中でつらいまま我慢するのではなく、かといってそこから脱するために内にばかり向かうのでもなく、いつものかしこくない自分のままの生活において、かしこい自我の欲求に従い高次の自我を育てつつ、つらい状況下でこその一瞬の光を生み出し、気付き、なおかつそれを「チャンス」として生かし、現実を創出していくことが大切であること、その先に人類の未来があることを教えていただけたのではないかと思う。
そのためのしくみ、そしてツール(愛、自我、日常の中の非日常、瞬間の凝縮、そしてそれらがちりばめられた芸術)を教えていただけたのかな、と・・・
つらいからこそ気付く光、失敗があっての成功、闇があるからこそ差す光、そして究極の光「絶頂体験」?
(せ、先生の意図と違う方向に思考が働き、引っ張られる~、、、 未熟な自分(^^;)
とりあえず、現在の自分の頭の中では4年前の預言カフェでの預言、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の対比、歓喜天、ガネーシャなどなどが渦巻いて収拾付かない状態だが、とにかく『ユーフィーリング』は早く読め、というシンクロなのだろう・・・
一瞬は永遠・・・ 瞬間瞬間の積み重ねが流れとなる。バランスが必要か、、、
アナログとデジタル。真我と自我。胎蔵と金剛界。あの世とこの世。右脳と左脳。飛躍して「ぐるぐるー、ぐるぐる~」と頭の中のずんの飯尾が言い出すので、止めておこう(^^;